2017年9月8日金曜日

84歳の母の生き方を見て思うこと、そして反省すること 


本日は母の話をしたいと思います。
母は昭和8年生まれの84歳。
ずっと元気だったのですが、約半年前にガンが見つかりました。
発見された時は、すでに末期な状態でした。
もう退院は難しいかな、、と思っておりましたが、最近になってようやく以前からいた老人ホームに戻ることができたのです。
母と過ごせる日々はもうそんなに多くないんだろうな……この年(47歳)になって遅ればせながらその思いが脳裏をよぎるようになり、母が病気になってからはマメに時間を見つけて会いに行くようにしています。

見舞いに行くと、母は高齢なこともあり、同じ話を何度も繰り返し話します。(笑)
自分の人生や、私を含めた子供の小さいころの話、孫の話など、、。何度も聞いた話ですが、たまに初耳の話もあるのが不思議です。(笑)
以前は母の話を聞くことを「めんどうだな。」と思い露骨に嫌な表情をうかべてましたが、今は話を聞くことがうれしく、うんうんと相槌を打ちながら聞いています。

母は愛知県名古屋出身。地元では有名な実業家の父(自分にとっては祖父)のもと、それなりに裕福な生活だったようです。
ですが、戦争の時代となり、幼い頃、空襲警報を聞きながら防空壕に駆け込んだことが何度もあったようです。
生きるか死ぬかの話で非常に怖かったと、よくそんな話を聞きました。
そして、食べるものにも相当不自由したようです。

戦争も終わり、母と父はお見合い結婚しました。
母は、愛知の実家を出て、東京の父の家に嫁ぐことになりました。
父方も事業を営む家系でした。私の父は長男で祖父の築いた企業を継ぐ立場でした。
結婚後はとにかく苦労が多かったようです。
父の実母、つまり母にとっては姑となるわけですが(自分の祖母ですね)、自身にも家族にも厳しい方。母にも厳しく接する姑だったようです。
加えて父の弟妹は10人おり、その家族も含めると総勢30人くらいの大家族。その大家族の長男嫁だった母は、家業も手伝い、大家族の世話をする、とにかく忙しく気苦労も絶えない生活だったようです。
私は4人兄弟でだいぶ年が離れてうまれた末っ子でしたのでその時代は知らないのですが、私の兄姉3人は母の苦労を目の当たりにしていたようです、

すみません、思わず母の昔話が長くなってしまいました。
今回のブログはなにもしめっぽい話をするつもりはなくって。。。

これまでにないぐらいに母と密に接するうちに、母のエネルギー溢れる生き方に改めて気づかされた、それをここに記しておきたいと思ったわけです。

戦争経験者だからなんでしょうか……生きるか死ぬかの瀬戸際を経験したからでしょうか……食べるものに苦労したからでしょうか……。
戦争を乗り越え、やがて家庭を築いた母はとにかくエネルギー溢れる生き方をしていたように思います。

母のエネルギーの矛先は、自分を含めた4人の子供の教育でした。
いわゆる教育ママ、子供成長第一ママだったと思います。
少子化、単一家族の時代に子育てに時間とお金を割く、、ではなく、稼業を手伝い大家族嫁として家庭を守り姑に厳しく指導される、、という状況にもかかわらず4人の子供たちの教育に人一番エネルギーを割いたのです。
子供の才能を見つけるためか、いろいろなことを学ばせたり、イベントに参加させたり、興味をもったことはとにかくチャレンジさせたり。
勉学にも熱心で、兄弟全員に中学受験をさせたり、、でした。
私は、ピアノをやりたいと5歳くらいの時になぜか言ったようで、すぐにピアノを学びに行かされ、ついでに絵も学びに行かされ、、、と。
あ、才能は開花しませんでした、、。

ガンが発見されてからも、まだそのエネルギーはまったく枯れていないことに驚かされます。
いまの口グセは「早く元気になりたいな~」「買い物したいな~」「美味しいものが食べたいな~」、そのみっつ!
飲食がまったくできず点滴生活なのに、寝たきりにもかかわらず、、、です。はい。

母のこの生きるエネルギーはすごいな、と思うのと同時に、この特徴は自分にもしっかりと受け継がれているのではないかと思わずにはいられません。
自分の場合は、溢れるエネルギーを仕事、つまりフェローシップに注いでいます。
とにかく、チャレンジングな仕事をしているのが楽しい。もっともっと上昇したい。新しい自分に出会いたい。
社員や、お客様や、様々な人と社会でかかわり、自分を表現できることが楽しい。
エネルギーが溢れている自分を感じています。
母のエネルギーは子育てと食べることにむいてましたが、私はビジネスとお酒かな(笑)。

重い話にもしめっぽい話にもするつもりはないのですが、それでも最後にひとつだけ。
自分はこれまでまったく親孝行せず、母にもそっけなく接してきました。
リクルートを退職して独立した時、心配症な母に「あーだこーだ」言われるのが面倒なので、3年くらい独立したことを内緒にしてました。親不孝ですよね。。。(笑)

母の病気がわかって痛切に感じたことがあります。それは「時は戻らない」ということ。本当は母にもっと違う接し方ができたはず、もっと親孝行すればよかった、と最近は後悔しきりです。

時は戻らない――そんな簡単なことに若いうちはなかなか気づけない。けれど日常生活でもビジネスシーンでも、時は戻らないのです。絶対に。
普段忘れてしまいがちなこの事実をこれからはしっかりと胸に刻んで、後悔しない生き方をしなければならないなと改めて痛切に感じています。そして、同じ生きるならやっぱりエネルギー溢れる生き方をしたい! 
エネルギーあふれる母の生き方にふれるたびに、そう感じています。

今、また採用強化で募集活動をしています。中途も新卒もです。
エネルギーあふれる自分は、エネルギーあふれる人との出会いを待っています。
戻らない時を、共に歩めることを楽しみしながら。

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小山 剛生 (こやま たけお)
株式会社フェローシップは、”仲間”を語源としてます!

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2017年9月1日金曜日

派遣スタッフとランチをしてきました! Part2

昨日今日とすっかり涼しくなってますね。社内は季節の変わり目か、風邪気味の人が多く、マスク組が幅を利かせております。。。
さてさて、先日に派遣スタッフで2年ほど活躍してくれた27歳の男性・Aさんと一緒にランチをしてきました。
私は、営業担当としてではなくキャリアコーチの立場で彼と1年半ほどかかわってまいりました。
キャリアコーチは弊社独自の体制で、派遣スタッフ一人ひとりに専属でついているコーチングスタッフです。営業ももちろんフォローはするんですが、どうしても派遣先様の派遣オーダーにそって派遣スタッフをマネジメントする立場。キャリアコーチはそれとは一線を画し、派遣スタッフのキャリア支援を第一に派遣スタッフの話をきき相対する仕事です。

彼は某国立大学卒業。卒業直後に選んだ道はフリーターでした。あるテーマパークで働いてみたりといろんな経験をしたようです。そんなAさんが弊社派遣スタッフとなったのは約2年前のこと。弊社がAさんに提案した派遣先はリスティングサービス会社のディレクターアシスタント職でした。すぐに彼はその会社で働きはじめるようになったのですが……去年の3月に「Aさんが辞めると言っている」と弊社の営業担当者から報告を受けたのです。

私はそんなAさんと直接会って話を聞いてみることに。Aさんが働く会社のビル1Fで立ち話をしました。初めて会った彼の印象は正直「手強い人」というところでしょうか。弊社の営業担当に対して信頼感を持っておらず、当然ですが心を開かずで、表情に乏しく感情をくみ取ることがかなり困難だったのです。言葉数もそう多くはなくぽつりぽつりと話す言葉を拾ってみるとどうやら「正社員と同じような仕事をしているのに評価が低く給料が安い。社員にもなれないようだし、これではやってられない」という気持ちでした。
Aさんの話を聞きながらいろいろな考えが自分の頭をよぎりました。
正社員と同じ仕事をしているという彼の認識は正しいのだろうか、、。時給が上がらないといってもまだ仕事開始して半年。正社員と同じ仕事をしているなら派遣先に交渉の余地もあるが実際はどうか……けれども自分は直接その企業から話を聞いていないので、その場で適当なことを言うわけにはいきません。そのため「一旦この話は小山に預からせてもらえませんか。社員の件や時給の件は先方と話をしてみるし、それらが叶わないなら叶わないでそれはいったいなぜか、きちんと理由を訊いてみます。おそらくその過程でAさんの仕事ぶりや課題も出てくるかもしれない。課題を明確にして互いに成長を志し努力すればAさんのためにもなるはずです。1ヵ月私に時間をくれませんか。なので今回だけ更新してくれないだろうか。待ってくれませんか」と本気でAさんにぶつかりました。Aさんは熱意が伝わったのか、自分の提案を了承し、3ヵ月間更新することを約束してくれました。

自分はさっそく派遣先企業を訪ねました。人事担当は「現場に聞かないとわからない」といった回答。しばし回答を待ちましたが、具体的な仕事内容や明確な評価や課題はは明らかになりませんでした。私は「リアルな声を聞きたい」と直接派遣先にたずね、Aさんと面談をしつつ、Aさんから現場マネジャーを紹介してもらい直接お会いしました。現場マネジャーから聞いたAさんの仕事ぶりはというと……もっとも気になっているのは「主体性に欠けている面」だったようでした。そのほか「こっちから聞いた話をこっちにそのまま話す、作業としてはできているので派遣スタッフとしての役割は担っていただいているが、社員化となるとスタンスが違う。ディレクターの仕事は意志が必要なんです」と。辛辣な部分もありましたが、自分はそれらをA さんに正直に話しました。もちろん彼に気を悪くされてしまう恐れもありました。けれども「会社でどのように思われているのか。仕事に取り組む姿勢は間違ってはいないのか」を知ってもらうことが、きっと彼の今後に約立つはず。その確信があったから、ありのままを話してみることにしたのです。

結果、Aさんは話を素直に受け止めてくれました。その後、留学を検討したり、エンジニアの道を考えられたり、いろいろなキャリアを考えましたが、積極的に派遣先の社員さんたちともコミュニケーションをはかり、仕事に対しての姿勢も変わっていったのです。昨年冬にAさんから「給料をあげたい」との話が。人事とも相談し「作業としての成果ではなく主体的に提案する仕事をしてみましょう。そして社員と同様に派遣スタッフにもMVP賞をとるチャンスがある。賞をとることを目標にしてみましょう」と、自分は提案をしてみました。Aさんはその提案を前向きに受け止め、社内でMVP賞に選ばれることを目指しかなり努力をしたようです。そして今年の1月、Aさんは賞を勝ち取ったのです!私は本当にうれしかったです。祝福のメッセージをAさんに贈りました。
そしてそれがきっかけとなり、Aさんは見事派遣先の社員になることに。今月から同企業の沖縄支社で働くことが決まったのです。

そんなこともあり、先日にAさんの壮行会としてランチをご一緒しました。
Aさんは、私が初めて会った頃とはまるで別人のようでした。表情が豊かで口から出るのは自身の明るいビジョンばかり。マネジャーを目指したいと。Aさんと私との間には20歳の年の差はありますが、まるで友達や同志のような思いで話すことができたのです。いつか自分が沖縄に行ったならそのときはきっと一緒に泡盛を飲もう、なんていう約束も交わしました。今やLINE仲間です。(笑)

Aさんが「辞めたい」と話してきた時、それを受け入れることは正直簡単なことです。けれどそれがAさんのためになるようには、どうしても自分には思えなかった。きっといままでも仕事先で積極的に仕事に関わることなく、少し気に入らないことがあれば辞める、あるいは他によい条件のものがあれば移る、、その繰り返しだったのではないかと思われました。そしてそういう点を誰からも指摘されずにきたのだろうな、と。
私はその連鎖をどこかで断ち切るべきではないかと思い、派遣先企業に出向いて情報を収集し、その内容を彼に腹を割って話してみました。それを素直に受け止め、変わっていったAさんは素晴らしいと思います。あの時、辞めずに踏ん張ってくれてほんとうによかった。去っていくAさんの後ろ姿を見送りながら、そう強く感じました。


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小山 剛生 (こやま たけお)
株式会社フェローシップは、”仲間”を語源としてます!

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