2015年4月24日金曜日

リクルート時代をふりかえる vol6(真夏の飛び込み営業)

久しぶりに連日のブログ更新です!

今日は、新人時代の第2Q(7月~9月)、人事から営業現場に応援派遣されたことをふりかえりたいと思います。

1992年(平成4年)4月にリクルートに新卒入社し、配属は人事部採用担当でした。
自分の就職活動は、バブル時代。
そんな流れの中、社会人スタートを切ったわけですが、その直後にバブルが崩壊しました。
リクルートもバブルのストライクど真ん中にいた会社だったのです。。。。。

入社1ヶ月後の5月だった思います。
その日はフレックスで10時出勤を予定していて、朝寝坊を楽しんでいた日でした。
突然母親が部屋に飛び込んできて、寝ている自分に「リクルート、ダイエーになっちゃたみたいよ。」と。
「は~?」
テレビを見ると、ニュースで創業者の江副さんや当時社長の位田さんが記者会見をしていました。
「ほんとだ、、。何が起きたんだろう、、、。」
あわててスーツを着て、会社にむかいました。

リクルートは関連子会社で不動産、不動産投資をしていて、バブル崩壊により1兆円以上の借金を返済できない状況に陥りました。
創業者の江副さんは大手企業の傘下に入り再建するしかないと考え、何社かの大企業に相談に行っていたようです。
その中で、リクルートの経営の独立性を一番約束してくれたのがダイエーの創業者中内氏で、江副さんはダイエーに自身の持ち株を売却する決断をしました。
当然に水面下での話で、一部役員しかしらない話だったようです。
全従業員、ダイエー傘下入りを、ニュースで知った状況でした。
リクルートに激震がはしった日でした。

前置きが長くなりましたが、そんなことが入社直後に起こりました。
社内は騒然。
つぶれるかもしれない、、。ロゴマークがオレンジになるのか、、。
ま、しっかり稼いで再建すればいいじゃん、、、。
いろいろな会話がなされてましたが、会社の方向は原点回帰。とにかく本業で儲けて借金を返すんだと。

当時200名くらいいた人事部採用担当でしたが、6月末をもってほとんどメンバーが営業現場に異動することになりました。
人の採用ではなく、日銭を稼げ!というわかりやすい人事でした。

私にも辞令があり、「お前はまだ若いから、来年以降の採用もしてもらわないといけない。だから、応援派遣。第2Qのみ営業してこい! 」と言われ、3ヶ月間だけ営業現場にでることになりました。
配属は、SJ事業部港営業部。
今ならリクナビネクストやとらばーゆやタウンワークなどあつかう部隊。
当時はB-ingやとらばーゆやガテンといった転職情報誌の求人広告を獲得する営業でした。

7月の第1週はSJ事業部で商品知識や営業などの研修をうけ、第2週から本格的な営業をすることになりました。
目標は月6件の広告(値段やスペースは関係なく)を受注してこい! だったと記憶してます。
で、最初は、名刺獲得キャンペーン!
今みたいにビル1Fでセキュリティーチェックはないので、色々なビルの最上階にあがり、ひたすら会社に飛び込み、フロア全体飛び込んだら階段で一つ下におりていく。
いわゆるビル倒しという、、、そんな飛び込み営業でした。

灼熱の真夏、転職情報誌の見本誌を持てるだけ持っての営業。
見本誌も分厚くて重い。
アスクルのカタログみたいな本で、5冊くらいもって、ポスティングするチラシ持ってなので、新橋駅につくまでに腕がパンパン、汗びっしょりという状況でした。

自分のテリトリーは、赤坂7丁目、8丁目、9丁目。
新橋から赤坂見附や青山一丁目まで銀座線で行き、赤坂という戦場でひたすら飛び込む毎日でした。

大変でしたが、今から思えば、これがまたいい経験!

恐いものなくなりました。打たれ強くなりました。根性がつきました!
そして、涙あり、笑いあり、怒りあり、感謝あり、そんなエピソードあふれる経験でした。

ということで、時間がきてしまいました。
本日の仲間通信はここまで。
次回、当時のエピソードにふれていきたいと思います!



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小山 剛生 (こやま たけお)

株式会社フェローシップは、”仲間”を語源としてます!
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